2018年11月4日日曜日

濱口竜介『寝ても覚めても』

 そこから覚めなくてはならない逃避的な夢も、映画がリアリズムとしてふるまうとき描くだろう「正面から向かい合うべき現実」も、『寝ても覚めても』には最初から存在しない。
 麦は芸能人の身分をあっさりと捨て、朝子を連れて東京から北海道に向かうのになぜか飛行機ではなく車を選ぶのだが、途中の仙台の大堤防脇の場面であっさりと朝子に車を譲ろうとする様子からして特にこの車に執着があるわけでも、飛行機には乗せられないような大きな荷物が積んであるわけでもなく、さらに海を見たくていったん高速を降りたといっていたにも関わらず、海を見ることもないまま朝子の前から去るのだが、そもそも北海道(のかつて父が住んでいた家)に行こうとしたことにもさほど必然性があったとも見えず、何年も音沙汰なしであったというのに突然朝子の家を訪れ「迎えに来たよ」などとストーカーじみた行動をとるにも関わらず、ああもあっさりと朝子を置いて去ってしまうのか。
 およそ欲望や執着心といったものがあるのかないのか判然としないこの男は映画の冒頭、友人の岡崎によって「そんなわけあるかい」と笑われてしまうような、ばかばかしい「夢」のようななれそめで朝子と恋人となる。 彼は岡崎宅での朝子達との夕食のあと、食事をとったばかりだというのにパンを買いに行くという奇妙な理由で外出する。彼が立ち上がるタイミングはラジオから殺人事件の情報が流れたときなのだが、この不穏な雰囲気によってサスペンスとして映画が振る舞いだすのかと思えばそうでもない。
 彼が岡崎宅から離れていくときに朝子や友人達はトラックバックで撮影され(クリント・イーストウッド『チェンジリング』において主人公が息子のいる自宅を離れて職場にいくときの場面を思い出す、あの映画ではその後息子が行方不明となる)小さくなっていき、「置いていかれる」ことが映像によって予言され、麦がいつまでも帰ってこないことによって予言が成就し「失踪の謎」が出来するのかと思いきや、心配する朝子のもとに結局は麦は戻ってくる。帰ってこなかった理由がたちよった銭湯で知り合った人物と過ごしていたという、嘘とも本当ともつかない話なのだが、映画ではこれが事実であるともないとも確認されることはなく、映画後半で再登場した彼が語る「オーロラを見た」という話もまた虚言じみて聞こえるが、これまた虚実は確認されない。「置いていかれる」ショットによる予言は一度外されるものの、その後本当に行方をくらましたことが朝子の(おそらくこの映画唯一の)ヴォイス・オーヴァーによって観客に告げられる。予言は成就し、彼のこの行為が映画を前に進める謎として提示されたのかのといえばそうはならない。麦は「謎」なり「サスペンス」なりを作り出すべく配置された人物かと思いきや、謎に対する答えの開示がないどころか、そもそも彼の行動が解かれるべき謎だったのかすらあやしく、どこまでもつかみ所がないままであり、冒頭で彼はバイクで転倒事故を起こしたにも関わらず、同乗していた朝子ともども怪我一つせずに済んでしまうところから判断してあれはそもそも人間ではなく、麦=バクであり、映画後半で朝子を「迎えに来た」のも、「ふわふわした」朝子の夢を食べ彼女を現実に降ろすためなのだ、などといいそうになってしまう。なにせ彼は朝子に「目が覚めた?」という台詞を吐くのだから。だが『寝ても覚めても』と題されたこの映画はそのような、ある種の成長譚などではありえないだろう。
 確かに一人だけ異質な演技によって描かれる朝子も、麦とは別の意味でどこか現実味を欠いており、その演技は、ごく普通の意味で「達者な演技」である仲本工事とのやりとりにおいて違和感がいっそうたかまりなにやらそれぞれ別の映画の登場人物が会話しているかのように見えたりもするのだが、その現実味のなさを、リアリズムにすり寄るべく否定的に捉えてしまうと「ふわふわした」朝子は過ちを犯しており、それを結末にいたって改め「地に足をつけた」、などというつまらない解釈を呼び込んでしまうだろう。だがその「地」とやらはいつ崩壊するとも水没するともしれない代物であり、追う朝子と逃げる亮平、という関係によって二人がふたたび結びつくのは東日本大震災が描かれるこの映画では「決壊」という言葉を思い出さずにはいられない「堤防」なのだ。
 麦や朝子とは違い、亮平はごくあたりまえの生身の人間として登場するが、姫路生まれであるからには、大震災を二度経験したであろう彼は「大阪に本社があり職人もそちらにいる酒造会社」に勤めており、阪神淡路大震災では多くの造り酒屋も被害に遭ったことを考えればなおいっそう震災との結びつきが強く感じさせるのだが、では彼の帯びる「現実味」は、それを根拠としているのだろうか。さらにいえば、朝子はふわふわしていて、朝子の友人であるアヤが現役の女優であり、亮平の同僚である串橋がかつては俳優を志していた、という人物配置は、亮平一人別種の存在としていることは確かだろう。だが果たしてどのように「別種」なのか。(つけくわえれば、仲本工事は一般の俳優とは異なり、どれだけ演技が達者であろうと彼が「仲本工事」であることを忘れて観ることの難しい人物であるという点において、映画内の現実からは常に浮いているのだ。現にこの文章においても役名では書けていない)
 亮平はどのような人物なのだろう。麦が朝子にとって何を考えているのか分からない人物であったのと入れ替わって、朝子が亮平にとって、突然顔を触ってきたりする何を考えているのか分からない人物となる。麦にそっくりな亮平と出会ってしまった朝子の戸惑いは観客にとって理解できるものであるが、当然亮平はそんなことは知る由もない。「自分(=朝子)の方がよっぽど怖い」という台詞でも表される亮平の戸惑いは常識的な反応であり、観客の笑いを誘いもするだろう。彼はありきたりな人物なのだろうか。亮平は東日本大震災が起きた後、会社に戻ろうと駅に向かい、同様に駅に向かう人々の群れの一部となる。この場面はロングショットで撮られ亮平は群れの中に溶け込んでいるのだが、この群れに向かって「電車止まってるって!」となんども叫ぶが誰にも聞き入れられない作業服姿の男性に対し、亮平だけが足を止め、電車がすべて止まっていることを教わって礼を述べ、群れの流れに逆らって歩き出すことによって浮かびだす。さらに、道ばたに座り込んで泣く女性に誰も気を止めない中、彼だけが気遣って声を掛けもする。だがそのように群れから個として浮かび上がることができる彼の泳ぎは、達者とまではいかない。夜も更けた頃には彼は帰宅難民の群れに溶け込んで歩き続けることとなる。実のところ、危うい境界線上にいるのは朝子でも麦でもなく、彼なのだ。
 はたして群れに溶け込んでしまった亮平の前に、なぜそこにいるのか一切の説明もなく、またなんの脈絡もなく唐突に朝子は現れ彼を救い出すだろう、ヒーローのように、あるいは難民の歩みを断ち切る、という意味でスピルバーグ『宇宙戦争』の燃えさかりながら走る列車のように。ヴォイス・オーヴァーによっていったん映画の映像面から外に出て見せた彼女にしてみれば、この程度のことは造作もないことなのかもしれない。
 リアリティの拠って立つ場所としての「地」など元から存在しない。朝子と恋人となる前、亮平は会社のビルの非常階段から、路地でなじみの野良猫にえさをやるべく探している朝子を見下ろしていたとき、降り出した雨をきっかけに見上げた彼女に気付かれ、(猫のように)逃げられてしまう。そして雨は、結末近くで河川敷で亮平が捨てたという彼女の飼い猫を探す朝子に再び降りそそぐことによって堤防から「見下ろす」亮平と朝子を結びつける役目を担う。(いうまでもないことだが彼は雨が降り出したために、河川敷をいつまでもあきらめることなく猫を探し続けるであろう彼女が心配になって見にきたのである。川の増水、を口にしたのは他でもない亮平なのだから。彼の場合は突然現れるにしても理由も脈絡なしとはいかないのだ)
 逃げる亮平を朝子は追う、いつ水没するとも決壊するともしれない堤防の上で。リアリティの拠って立つ場所としての「地」など元から存在しない。流れから浮かび上がって雨に濡れた身体を拭く二人は復縁したわけでも仲直りしたわけでもない。朝子は亮平の許しを必要とせず、むしろ手に入れたのは亮平の「ずっと信じない」なのだ。亮平にとって「汚い川」である自宅のすぐそばを流れる天の川は朝子にとって「でもきれい」であり、そもそも最初から恋人などではなかったのかもしれないこの二人には別離などあるわけもなく、他人でも友人でも恋人でもない。朝子が仙台の堤防脇で麦に亮平との生活を、長い夢であり幸せな夢だったと語るのは、「ふわふわした」朝子が信じることができない「地」を亮平が信じているからであり、それは東北でのボランティアからの帰り、高速道路から降りて「地面」を走る車の中で朝子に寝ていてかまわない、という台詞にも現れている。亮平とともに車に乗っていたときは「地面」の上を寝たまま通り過ぎていた朝子は仙台から乗った高速バスでは起きたまま過ごすが、亮平と同じく「地」を信じるようになったというのだろうか。そうではない。別離が存在しなかった以上、元通りの関係に戻るために解決すべき問題ももとより存在せず、どこまでも二人にとって夢という言葉の意味は「寝ても覚めても」逆転したままであり、汚い川はきれいな川であり、亮平は朝子を信じないままであり、二人の名付けようのない関係が「増水すれば流される」家において続いていくだろう。もし本当に流されてしまったとしても。

2018年1月28日日曜日

『わたしたちの家』清原惟 ユーロスペース

 なにも恐れる必要はない。この映画では亀裂が走ったりしてはいないし、開いてはならない穴が開いたりもしていないのだから。
http://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html
 この映画では二組の女性たちが登場し、それぞれが生活している家は同じでありながら、同じ時空間には存在していない。といって別の時間に属しているわけでもなく「同時」に「同居」していながら全く別々の生活を営んでおり、合理的な理由は一切観客に与えられないまま併存し続け、軋轢(物語上の、ではなく映像上の)が生まれる。
 第五の壁などというまぬけな用語を作り出すまでもなく、ショットとショットの間を壁あるいは間隙と見なすことによってこの軋轢は成り立つ。ごく一般的な、物語をつぐむ映画のようにショットとショットが当たり前に繋がる物としてふるまわない点がこの映画のラディカルさだろうか。仮にそうであるなら、ショットとショットどころか、フィルムの一コマ一コマの間には元々間隙があるのだから、フィルムを手でたぐりながらコマとコマの間の隙間をしげしげと堪能しながらみるのが最もラディカルな映画の見方ということになるが、もちろんそんなばかげた話はない。ここでは何も越えられていないし、破られてもいない。そこに間隙があるというのならばあらゆる映画はそこを越えているのだから、すべての映画がラディカルであるというに過ぎず、間隙がないというのならこの映画だけに軋轢も矛盾も生じたりはしないことになる。元々映画は異なる時間や空間が平然と同居しているではないか。
 この「間隙」と同様の働きをするのが障子であり、たとえばあまた作られた前衛でも芸術でもないチャンバラ映画ならお決まりのようにばさんざん切られ破られ燃やされ、空間の内外をくるくると入れ替えもする障子は慎重に守られ「気の利いた」ショットにかしずいて貢献する。障子の横額越しに見える顔。障子越しに見える室内。光に変化を与え様々な陰影を生み美しいなどと評されてしまう。たとえば広大な屋敷の中をカメラが移動していき画面上を障子やふすまが横切っていくことによって空間の豊かさを表現したりもせず、小さな一軒家の中でつつましくふるまいつづける障子。何の為に?
 結局の所、二組の女性たちを繋いでいるのはたとえば夜鳴り響くサイレンという「音」であり、商店街(セリは恋人とあるく母を尾行し、母は姿を消したセリを探し、透子とサナは拾ったゴミを運ぶ)という「場所」であり、物干し竿に干された服と繕って室内につり下げられた子供服という「イメージの連なり」である。映画における一般的な手法のみでつなげられ、この映画の主な舞台となる家は二組の女性たちを決して繋がない。
 いいや、セリの指で障子に穴が穿たれ二組の女性たちの間を繋ぐ、あるいは境界を打ち破っているではないかというかもしれない。確かに穴は穿たれ、セリが覗きサナが覗く。しかし彼女たちが穴越しに何を見たのかは映されもしないし言葉にされもしない。障子の穴越しの、時空間を越えた切り返しショット、とでもいうのだろうか。なにも越えられてはいないし破れてもいない。出口はどこにもない。
 では物語になら出口はあるだろうか。
 セリが自転車の荷台にクリスマスツリーを積んで家出する時、これは青春映画として振舞うのかと思わせる。しかし、セリが清掃車とすれ違い、ありふれた映画ならばそこに母の恋人が乗っていて、彼がセリに声を掛けて無視されるなり、ミラー越しに去って行くセリを眺めたりするが、そのような手続きはこの映画では行われず、そもそも母の恋人が乗っているかどうかすら定かではないまますれ違う。母の恋人がセリに捨てられることはない。自転車でたどり着いた野原で、セリがクリスマスツリーを地面にたてコンセントを土にさすと、明かりがともる。このクリスマスツリーは壊れていた上、電気が通ってもいないのに光り出すため、ここから映画は抑制、というより抑圧された室内を飛びだしてホラ話として振る舞い出すのかといえば、そうはならない。
 やがてセリは家に戻るだろう、高畑勲『かぐや姫の物語』のかぐや姫のように。
 出口はどこにもない、物語にも、ショットとショットの間にも。あるいは出口を求めることすらできない。あるのは一見観客の世界の論理を超え映画の魔法として一軒の家に同居しているかのように見える二組の女性たちだけだ。
 サナをナンパした気味の悪い男と、セリの母が恋人から贈られた花瓶­­ーセリにとっては嫌悪の対象­ーだけがあつかましく間隙を越えるだろう。ナンパ男はずかずかと家に上がりこんでセリの側サナの側双方に不穏な空気をもたらし、セリが「誰か」に向かって投げた花瓶は彼に当たりはするが、この男に怪我すらさせることもなく床に落ちるだろう。
 主人公である女性たちは家出も叶わず記憶も戻らず、穴を開けることも、亀裂を走らせることも、間隙を超えることもできず、「美しいショット」に貢献する障子に囲まれたまま終わるだろう。
 サナの持つ「誰かに贈る為の物なのか、誰かからもらったものなのか分からない」プレゼントも、間隙を超えセリに届こうとして箱が開かれた瞬間、映画は終わる。
 とぎれとぎれの声や気配だけが互いのところへかろうじて届く。

2018年1月14日日曜日

『石内 都 肌理と写真』横浜美術館

http://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/
 わたしはこの服を着たことがある。確かにわたしが洗濯し、物干し竿に掛け、乾いたそれにアイロンを掛けてタンスにしまった服だ。いつのことだったか忘れてしまったわけではない。昨日だったか先週だったか袖を通した覚えがある。
 うかつにも『肌理と写真』という言葉に影響されて、肌の肌理、布の肌理、建物の肌理、あるいは写真そのもの肌理、これらを結びつけてしまいそうになる。だが当然それらは別の物だ。石内都の写す建物は、世にうんざりするほど存在する廃墟写真のように時間の蓄積を表してはいない。大野一雄の皺も石牟礼道子の皺も歴史ではない。
 傷は見つめる。たった今わたしを、さらにわたしを突き抜けて背後をも見つめている。石内都が傷のある裸体を写した写真には顔が映っていない。それをこんな風に批判することも可能だろう。「石内都は被写体の視線を避けている、顔を見ようとせず、のぞき見のように写している」。もちろんそうではない、元々顔は簡単に顔でなくなる、写真ならなおのことだ。しかし傷はいつまでもこちらを眺め続けるだろう。視線をそらしてくれることなど全くない。
 この傷をつけたのはわたしだ、といってしまえば欺瞞になるだろうか。ではどのように言えばいいのか。しない欺瞞よりする欺瞞、とでもいってやはりわたしのつけた傷であると言えばいいのか。それは目を閉じるよりはましであっても傷の視線をそらそうとしていることに変わりはない。傷は相変わらず何も語らないままこちらを見つめ続ける。わたしがなにか話さなくては。
 その点「ひろしま」の服は雄弁だ。ほとんどばらばらになった服よりも原形を留めている服の方が不穏なのは形が崩れれば崩れるほどオブジェと化し美術作品のようにふるまってくれるからだ。服を素材とした現代アートとやらをどこかでみたことがなかったか。原形を留めていれば?わたしはその服を着たことがある。この「美しい」服を、動揺をごまかすためではなく、ただ身につけた。他に方法がない。
 ではこうすればどうだろう、傷のある裸体に「ひろしま」の服を着せてしまうのだ。時間による風化を止められた服によって、今もこちらを見つめ続ける傷の視線を遮断してしまうのだ。
 展示会場で、後ろ姿が石内都に似た人を見かけてぎょっとする。しばらく眺めて別人であることを知って安堵する。裸体に服を着せたことを、知られてはならない。

2016年12月25日日曜日

三宅誰男『囀りとつまずき』書評(1)

http://bccks.jp/bcck/147019/info

 人称のろくに登場しないこの小説は、観察に基づかない。私もあなたも彼も彼女も名を呼ばれる者もまばらなこの世界で描かれる所作や心理は、あらかじめ存在し捉えられることを待っていた対象でも瞬間ではない。
 もとより文芸批評などで見かける人称の担い手の視線をカメラを比喩として分析する手段はぞんざいに過ぎるが、『囀りとつまずき』にあってはなおいっそうふさわしくない。
 浅黒くさらけだされた肌に着地するかそけき気配をおぼえるやいなや血を吸われるよりもすばやくふるわれることのならいとなっている平手が、まなざしの照準からのがれてすでに行方をくらましているらしいぬけめない機敏さをたしかに認めておきながら、それでいてなおとどまることなくぴしゃりと音をたてる。風に吹かれてしなだれるうぶ毛のそよぎに敵意を誤認することも少なからずあれど、ここでもやはり肩すかしの感にいなされることもなければ制されることもなくふるわれる平手の一度や二度どころの話ではけっしてない。標的の不在をねらう手にやどるのは懲罰の意志である。いっぽうはおのれの間のぬけた鈍感さのために、もういっぽうはおのれの過度な繊細さのために、かさぶたの目立つ肌が自罰の鞭に打たれている。
平手が主語であるかの様に振る舞い、打擲のあとにやってくる懲罰の意志がやどるのは手であり、撃たれるのもまた腕であってみれば、ここに存在するのは腕と手と逃れ去った血を吸う何者か(蚊とは明言されていない)であり、人称の担い手としての語り手は存在しない。
 うかつにもこれを擬人化と見なし、人に擬す語り手が間違いなく存在するではないかと反論する者にはでは蟻が歩くとは擬人化でないといえるのか、椅子の脚はどう解釈するのか、そもそも擬人化を指摘しようというのなら人を人に擬す行為はなぜ問いはしないのかという反論を返そう。
 背中をあずけようにも受けとめてくれるもののない簡素な石造りのベンチに腰かければ、おのずと上体を深々と折りまげた姿勢をとらざるをえない木漏れ日のなかの書見である。底ぬけに高い秋晴れの空にさそわれたらしいそぞろ歩きらの砂地を踏みしめる足音が左右からたびたび接近してくるのに、いちいち顔をあげて確認の目線を送りだすのも億劫きわまりない。書見にのめりこむ姿勢をそのまま演じつづければわけもないと割りきる声にしたがいながらもそれとはうらはらな好奇心とも警戒心ともつかぬのが、紙面に固定された窮屈な視界のその背景にまぎれこむ足下をついつい追ってしまうひさしに隠したまなざしとして結実するにいたれば、靴をみれば人間がわかるの謂いにしたがってプロフィールを推測するひとり遊びのこれがひそかな幕開けとなる。
そぞろ歩きらが億劫がらせるのは書見であり、誰かではない。
 書架のたちならぶ通路をぬけようとするこちらの前方で背表紙にまなざしを走らせている女が見知った顔にうりふたつである。見れば見るほどそっくりな横顔ばかりではない、彼女の関心にふさわしい並びの書物をまえにしていかにも熱心なその立ち姿を目の当たりにすれば、ひさしく顔をあわせていない当人そのひとなのではないかとますます強くうたがわれるものの、そこまで高くはなかったはずの背丈にくわえてデニムのジャケットも印象にたがう趣味であるとみえるのが、気やすい呼びかけをなかなかどうしてゆるしてくれない。どっちつかずのむずかしさを処しかねながら、すれちがいざまにひそかな値踏みの一瞥を送りだしてみたところで、ほかならぬ当人であるとする率直な判断とそう断定するにははばかられる慎重な違和感とがますます拮抗するばかりで、たがいに一歩もゆずろうとはしない。それでいて通りすぎた先からふたたびちらりとふりかえって送りだしてみたまなざしがとらえたもういっぽうの横顔は、そっくりさんでもなんでもない、赤の他人であることのたちどころにあきらかないっぺんの見覚えもなき造作であるとくる。
 関係の数だけもちあわせてあるのが本来であるはずの人間の顔つきが、
 逝ってまもない祖母にそっくりの老婆が黒装束に身をつつんで歩いているのとすれちがいざまに目が合う。たっぷりとふくみのある間であったぶんだけしかと焼きつけられるにいたった相似の印象をどうにも処しかねながら角を折れれば、こんどは没交渉になってひさしい知人にうりふたつの顔と出くわす。かくして筋道に勢いがつく。すれちがうものらがことごとく見知った顔の面影をやどしはじめる道行きにいちど転じてしまえばもはやおしとどめるすべもないのを、みずからもまた子どもっぽく堪能しふりはらうどころかますますおしすすめるいっぽうであったのが、それでいて一転、このたわむれはまずいという背筋を駆けぬけるとつぜんの戦慄とともにわれにかえる。見出される顔に死者と生者のべつがない、すでに常世ともつかぬ地を踏む足どりだった。
顔は知人の認定には役立たず、関係の数だけ散らばり、相似は死者と生者の境目を危うくする。
 人が人の顔を見る時、人に擬す。それが砕け散らないように。どうか顔が顔でありますように。
 きみのことは愛せない。きみのいる風景なら愛せる。
 鏡のなかにはだれもいない。鏡のむこうにだれかがいる。
 死にたいのではない。死体になりたいのだ。
アフォリズムは風景やむこうや死体を現しだしてみせながら、どこから発せられたか判然としない。語り手はどこからやってきてどこへ行くのか。どこからもやってこなかったしどこへも行かない。
 人称もまた人に擬すだろう。読む者に安寧をもたらす為に。死体になりたいのが誰を知る必要もないし、君を愛せばすむ話だし、鏡のむこうになど誰もいない。
 バベルの塔の崩壊――天にもいどみかからんとする塔の建立そのものが裁きの対象となったわけではない。塔の頂上からのさまたげるものなき見晴らしを介しておのれ自身の背中をとらえようとした被造物の魂胆こそが、怒れる神の逆鱗に触れたのである。
カフカ『都の紋章』の変奏というよりも『流刑地にて』を思わせる背中。しかし背中に罪が刻まれるのではなく背中を見ようとした罪。
 ファストフード店の二階カウンター席。ふと顔をあげた正面の大窓から見おろすことのできる交差点の群衆のなかで信号待ちをする男の、あざやかな緑色の上衣がひときわ目立ってみえるのをなんとなしにながめるうちに、活字にまみれて意味によどんでいたまなざしがあらいきよめられていく。さえわたったものをふたたび書物の難解に落としてしばらく、さほど長続きしてくれない没頭からふたたびわれにかえってみれば、豆粒大だった緑色が等身大の男となって隣席に腰かけている。
豆粒大だった緑色が等身大の男となるのはもちろん視点(カメラ)の移動などではない。書きつつ書かれつつあった文体が不意を突かれたからだ。

 人でないものが主語になり顔は砕け散りアフォリズムはどこからやってきたかしれない。それが『囀りとつまずき』の「主題」だろうか。
むろん主題とて見逃されるわけなく、主題もまた砕かれるだろう。
 ベンチに長々と横たわらせてあった身体を起こしてひと息つけば、こちらにむけて先からのろのろとした足どりで接近しつつあったらしい姿の、偶然にもすぐそこに達したばかりであるところにはたとむきあう恰好となる。傍目にはあるいは、遠くからやってくるその足音に気づいて姿勢をただした間のとりかたにもみえたかもしれない。
 暗がりにしずんでいた尾灯の不意にともるやいなや、路肩に停められていた自動車が最初はおずおずと、それからだしぬけに発進する。岸辺をはなれる船のためらいを赤くにじませながらも、それと見極めたらしい流れに舵を切りみずからをゆだねてとつぜん加速する一連の動作の、背後から接近するこちらの気配を受けてなしとげられたかのような間のとりかたをまえにすれば、未遂に終わった不意打ちを悔いるひとつのなつかしさが不意によみがえる胸中となる。
 おなじ路上のすこし先をゆく若い男の後ろ姿になんとなくつきまとう見覚えの、その正体が十歳若いおのれ自身のかつてであることにたしかにおもいいたりながらもなお腑に落ちない。背格好にくわえて当時好んでいた街着とうりふたつのよそおいをしているそのためにもよおした既視感とみえるが、この目で直接とらえたことなどいちどもないはずの後ろ姿が想起の対象としてたちどころに浮上するのもいかにも不自然な話ではある。しょせんはそこなわれていくいっぽうでしかない記憶の、おもいかえされるたびごとにおのずととりつくろわれていくその細部が塵と積もって山をなしていくうちに、よみがえる心象が一人称のさかいをやぶいて三人称の遠巻きにのびひろがっていく――そんなことの経緯におぼえがないわけでもない。十年の歳月が自身をして徐々に他人たらしめていくその帰結としてもたらされたありえない後ろ姿のながめが、どことも知れぬ過去にむけて先導者の足どりで歩いている。
 因果関係はたゆたい、「心象」が「人称」のさかいをやぶく。
 主題は砕かれる、あるいは砕かれる主題とやらも最初からどこにもありはしない。
 
 手癖となった文体に席巻される思考――いまやわたしが感じ考えるのではない、この文体が感じ考えるのだ。

 所作でも心理でもなく、小説こそを文体が書く。坂道を転がる石は、石が坂道を観察しているわけでも坂道が石を観察しているわけでもない。石を転した時、一度たりとも同じ転がり方はしないように、その文体はその都度異なる小説を書くだろう。
 夜のうちに降りつもったもののいまだひとつも踏みにじられていないらしいのが白い平均をなしてまぶしい架橋の上に、二輪の軌跡をいのいちばんにのこしてさしかかる冷え冷えとしてあかるい早朝である。親しみをおぼえてひさしい河川敷を見晴らせばいつもとことなってみえる目新しさの、これはどうにも雪化粧のまばゆさのためばかりではない、むしろ住みなれていくにつれて見出しがたくなる古都のおもむきの、地表をおおうアスファルトの硬く無機質な質感がくまなく封殺されてあるいまだからこそはばかりないそのあらわれにこそ由来するものとみえる。積雪のよそおいが都市を飾りつける小手先の衣装をおおい隠し、その身体の線をあらためて浮きぼりにしているのだ。
覆われることによって浮き彫りにされる。対象を観察することによって暴かれる内部など存在しない。
 見ることの罪。なにも見ないことによって誠実ぶるのはどこかで見かけた光景だ。背中を見ようとしたことの罪とは、不可視のものを見ようとしたことの罪ではない。

(続)