2018年1月28日日曜日

『わたしたちの家』清原惟 ユーロスペース

 なにも恐れる必要はない。この映画では亀裂が走ったりしてはいないし、開いてはならない穴が開いたりもしていないのだから。
http://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html
 この映画では二組の女性たちが登場し、それぞれが生活している家は同じでありながら、同じ時空間には存在していない。といって別の時間に属しているわけでもなく「同時」に「同居」していながら全く別々の生活を営んでおり、合理的な理由は一切観客に与えられないまま併存し続け、軋轢(物語上の、ではなく映像上の)が生まれる。
 第五の壁などというまぬけな用語を作り出すまでもなく、ショットとショットの間を壁あるいは間隙と見なすことによってこの軋轢は成り立つ。ごく一般的な、物語をつぐむ映画のようにショットとショットが当たり前に繋がる物としてふるまわない点がこの映画のラディカルさだろうか。仮にそうであるなら、ショットとショットどころか、フィルムの一コマ一コマの間には元々間隙があるのだから、フィルムを手でたぐりながらコマとコマの間の隙間をしげしげと堪能しながらみるのが最もラディカルな映画の見方ということになるが、もちろんそんなばかげた話はない。ここでは何も越えられていないし、破られてもいない。そこに間隙があるというのならばあらゆる映画はそこを越えているのだから、すべての映画がラディカルであるというに過ぎず、間隙がないというのならこの映画だけに軋轢も矛盾も生じたりはしないことになる。元々映画は異なる時間や空間が平然と同居しているではないか。
 この「間隙」と同様の働きをするのが障子であり、たとえばあまた作られた前衛でも芸術でもないチャンバラ映画ならお決まりのようにばさんざん切られ破られ燃やされ、空間の内外をくるくると入れ替えもする障子は慎重に守られ「気の利いた」ショットにかしずいて貢献する。障子の横額越しに見える顔。障子越しに見える室内。光に変化を与え様々な陰影を生み美しいなどと評されてしまう。たとえば広大な屋敷の中をカメラが移動していき画面上を障子やふすまが横切っていくことによって空間の豊かさを表現したりもせず、小さな一軒家の中でつつましくふるまいつづける障子。何の為に?
 結局の所、二組の女性たちを繋いでいるのはたとえば夜鳴り響くサイレンという「音」であり、商店街(セリは恋人とあるく母を尾行し、母は姿を消したセリを探し、透子とサナは拾ったゴミを運ぶ)という「場所」であり、物干し竿に干された服と繕って室内につり下げられた子供服という「イメージの連なり」である。映画における一般的な手法のみでつなげられ、この映画の主な舞台となる家は二組の女性たちを決して繋がない。
 いいや、セリの指で障子に穴が穿たれ二組の女性たちの間を繋ぐ、あるいは境界を打ち破っているではないかというかもしれない。確かに穴は穿たれ、セリが覗きサナが覗く。しかし彼女たちが穴越しに何を見たのかは映されもしないし言葉にされもしない。障子の穴越しの、時空間を越えた切り返しショット、とでもいうのだろうか。なにも越えられてはいないし破れてもいない。出口はどこにもない。
 では物語になら出口はあるだろうか。
 セリが自転車の荷台にクリスマスツリーを積んで家出する時、これは青春映画として振舞うのかと思わせる。しかし、セリが清掃車とすれ違い、ありふれた映画ならばそこに母の恋人が乗っていて、彼がセリに声を掛けて無視されるなり、ミラー越しに去って行くセリを眺めたりするが、そのような手続きはこの映画では行われず、そもそも母の恋人が乗っているかどうかすら定かではないまますれ違う。母の恋人がセリに捨てられることはない。自転車でたどり着いた野原で、セリがクリスマスツリーを地面にたてコンセントを土にさすと、明かりがともる。このクリスマスツリーは壊れていた上、電気が通ってもいないのに光り出すため、ここから映画は抑制、というより抑圧された室内を飛びだしてホラ話として振る舞い出すのかといえば、そうはならない。
 やがてセリは家に戻るだろう、高畑勲『かぐや姫の物語』のかぐや姫のように。
 出口はどこにもない、物語にも、ショットとショットの間にも。あるいは出口を求めることすらできない。あるのは一見観客の世界の論理を超え映画の魔法として一軒の家に同居しているかのように見える二組の女性たちだけだ。
 サナをナンパした気味の悪い男と、セリの母が恋人から贈られた花瓶­­ーセリにとっては嫌悪の対象­ーだけがあつかましく間隙を越えるだろう。ナンパ男はずかずかと家に上がりこんでセリの側サナの側双方に不穏な空気をもたらし、セリが「誰か」に向かって投げた花瓶は彼に当たりはするが、この男に怪我すらさせることもなく床に落ちるだろう。
 主人公である女性たちは家出も叶わず記憶も戻らず、穴を開けることも、亀裂を走らせることも、間隙を超えることもできず、「美しいショット」に貢献する障子に囲まれたまま終わるだろう。
 サナの持つ「誰かに贈る為の物なのか、誰かからもらったものなのか分からない」プレゼントも、間隙を超えセリに届こうとして箱が開かれた瞬間、映画は終わる。
 とぎれとぎれの声や気配だけが互いのところへかろうじて届く。

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