2016年12月25日日曜日

三宅誰男『囀りとつまずき』書評(1)

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 人称のろくに登場しないこの小説は、観察に基づかない。私もあなたも彼も彼女も名を呼ばれる者もまばらなこの世界で描かれる所作や心理は、あらかじめ存在し捉えられることを待っていた対象でも瞬間ではない。
 もとより文芸批評などで見かける人称の担い手の視線をカメラを比喩として分析する手段はぞんざいに過ぎるが、『囀りとつまずき』にあってはなおいっそうふさわしくない。
 浅黒くさらけだされた肌に着地するかそけき気配をおぼえるやいなや血を吸われるよりもすばやくふるわれることのならいとなっている平手が、まなざしの照準からのがれてすでに行方をくらましているらしいぬけめない機敏さをたしかに認めておきながら、それでいてなおとどまることなくぴしゃりと音をたてる。風に吹かれてしなだれるうぶ毛のそよぎに敵意を誤認することも少なからずあれど、ここでもやはり肩すかしの感にいなされることもなければ制されることもなくふるわれる平手の一度や二度どころの話ではけっしてない。標的の不在をねらう手にやどるのは懲罰の意志である。いっぽうはおのれの間のぬけた鈍感さのために、もういっぽうはおのれの過度な繊細さのために、かさぶたの目立つ肌が自罰の鞭に打たれている。
平手が主語であるかの様に振る舞い、打擲のあとにやってくる懲罰の意志がやどるのは手であり、撃たれるのもまた腕であってみれば、ここに存在するのは腕と手と逃れ去った血を吸う何者か(蚊とは明言されていない)であり、人称の担い手としての語り手は存在しない。
 うかつにもこれを擬人化と見なし、人に擬す語り手が間違いなく存在するではないかと反論する者にはでは蟻が歩くとは擬人化でないといえるのか、椅子の脚はどう解釈するのか、そもそも擬人化を指摘しようというのなら人を人に擬す行為はなぜ問いはしないのかという反論を返そう。
 背中をあずけようにも受けとめてくれるもののない簡素な石造りのベンチに腰かければ、おのずと上体を深々と折りまげた姿勢をとらざるをえない木漏れ日のなかの書見である。底ぬけに高い秋晴れの空にさそわれたらしいそぞろ歩きらの砂地を踏みしめる足音が左右からたびたび接近してくるのに、いちいち顔をあげて確認の目線を送りだすのも億劫きわまりない。書見にのめりこむ姿勢をそのまま演じつづければわけもないと割りきる声にしたがいながらもそれとはうらはらな好奇心とも警戒心ともつかぬのが、紙面に固定された窮屈な視界のその背景にまぎれこむ足下をついつい追ってしまうひさしに隠したまなざしとして結実するにいたれば、靴をみれば人間がわかるの謂いにしたがってプロフィールを推測するひとり遊びのこれがひそかな幕開けとなる。
そぞろ歩きらが億劫がらせるのは書見であり、誰かではない。
 書架のたちならぶ通路をぬけようとするこちらの前方で背表紙にまなざしを走らせている女が見知った顔にうりふたつである。見れば見るほどそっくりな横顔ばかりではない、彼女の関心にふさわしい並びの書物をまえにしていかにも熱心なその立ち姿を目の当たりにすれば、ひさしく顔をあわせていない当人そのひとなのではないかとますます強くうたがわれるものの、そこまで高くはなかったはずの背丈にくわえてデニムのジャケットも印象にたがう趣味であるとみえるのが、気やすい呼びかけをなかなかどうしてゆるしてくれない。どっちつかずのむずかしさを処しかねながら、すれちがいざまにひそかな値踏みの一瞥を送りだしてみたところで、ほかならぬ当人であるとする率直な判断とそう断定するにははばかられる慎重な違和感とがますます拮抗するばかりで、たがいに一歩もゆずろうとはしない。それでいて通りすぎた先からふたたびちらりとふりかえって送りだしてみたまなざしがとらえたもういっぽうの横顔は、そっくりさんでもなんでもない、赤の他人であることのたちどころにあきらかないっぺんの見覚えもなき造作であるとくる。
 関係の数だけもちあわせてあるのが本来であるはずの人間の顔つきが、
 逝ってまもない祖母にそっくりの老婆が黒装束に身をつつんで歩いているのとすれちがいざまに目が合う。たっぷりとふくみのある間であったぶんだけしかと焼きつけられるにいたった相似の印象をどうにも処しかねながら角を折れれば、こんどは没交渉になってひさしい知人にうりふたつの顔と出くわす。かくして筋道に勢いがつく。すれちがうものらがことごとく見知った顔の面影をやどしはじめる道行きにいちど転じてしまえばもはやおしとどめるすべもないのを、みずからもまた子どもっぽく堪能しふりはらうどころかますますおしすすめるいっぽうであったのが、それでいて一転、このたわむれはまずいという背筋を駆けぬけるとつぜんの戦慄とともにわれにかえる。見出される顔に死者と生者のべつがない、すでに常世ともつかぬ地を踏む足どりだった。
顔は知人の認定には役立たず、関係の数だけ散らばり、相似は死者と生者の境目を危うくする。
 人が人の顔を見る時、人に擬す。それが砕け散らないように。どうか顔が顔でありますように。
 きみのことは愛せない。きみのいる風景なら愛せる。
 鏡のなかにはだれもいない。鏡のむこうにだれかがいる。
 死にたいのではない。死体になりたいのだ。
アフォリズムは風景やむこうや死体を現しだしてみせながら、どこから発せられたか判然としない。語り手はどこからやってきてどこへ行くのか。どこからもやってこなかったしどこへも行かない。
 人称もまた人に擬すだろう。読む者に安寧をもたらす為に。死体になりたいのが誰を知る必要もないし、君を愛せばすむ話だし、鏡のむこうになど誰もいない。
 バベルの塔の崩壊――天にもいどみかからんとする塔の建立そのものが裁きの対象となったわけではない。塔の頂上からのさまたげるものなき見晴らしを介しておのれ自身の背中をとらえようとした被造物の魂胆こそが、怒れる神の逆鱗に触れたのである。
カフカ『都の紋章』の変奏というよりも『流刑地にて』を思わせる背中。しかし背中に罪が刻まれるのではなく背中を見ようとした罪。
 ファストフード店の二階カウンター席。ふと顔をあげた正面の大窓から見おろすことのできる交差点の群衆のなかで信号待ちをする男の、あざやかな緑色の上衣がひときわ目立ってみえるのをなんとなしにながめるうちに、活字にまみれて意味によどんでいたまなざしがあらいきよめられていく。さえわたったものをふたたび書物の難解に落としてしばらく、さほど長続きしてくれない没頭からふたたびわれにかえってみれば、豆粒大だった緑色が等身大の男となって隣席に腰かけている。
豆粒大だった緑色が等身大の男となるのはもちろん視点(カメラ)の移動などではない。書きつつ書かれつつあった文体が不意を突かれたからだ。

 人でないものが主語になり顔は砕け散りアフォリズムはどこからやってきたかしれない。それが『囀りとつまずき』の「主題」だろうか。
むろん主題とて見逃されるわけなく、主題もまた砕かれるだろう。
 ベンチに長々と横たわらせてあった身体を起こしてひと息つけば、こちらにむけて先からのろのろとした足どりで接近しつつあったらしい姿の、偶然にもすぐそこに達したばかりであるところにはたとむきあう恰好となる。傍目にはあるいは、遠くからやってくるその足音に気づいて姿勢をただした間のとりかたにもみえたかもしれない。
 暗がりにしずんでいた尾灯の不意にともるやいなや、路肩に停められていた自動車が最初はおずおずと、それからだしぬけに発進する。岸辺をはなれる船のためらいを赤くにじませながらも、それと見極めたらしい流れに舵を切りみずからをゆだねてとつぜん加速する一連の動作の、背後から接近するこちらの気配を受けてなしとげられたかのような間のとりかたをまえにすれば、未遂に終わった不意打ちを悔いるひとつのなつかしさが不意によみがえる胸中となる。
 おなじ路上のすこし先をゆく若い男の後ろ姿になんとなくつきまとう見覚えの、その正体が十歳若いおのれ自身のかつてであることにたしかにおもいいたりながらもなお腑に落ちない。背格好にくわえて当時好んでいた街着とうりふたつのよそおいをしているそのためにもよおした既視感とみえるが、この目で直接とらえたことなどいちどもないはずの後ろ姿が想起の対象としてたちどころに浮上するのもいかにも不自然な話ではある。しょせんはそこなわれていくいっぽうでしかない記憶の、おもいかえされるたびごとにおのずととりつくろわれていくその細部が塵と積もって山をなしていくうちに、よみがえる心象が一人称のさかいをやぶいて三人称の遠巻きにのびひろがっていく――そんなことの経緯におぼえがないわけでもない。十年の歳月が自身をして徐々に他人たらしめていくその帰結としてもたらされたありえない後ろ姿のながめが、どことも知れぬ過去にむけて先導者の足どりで歩いている。
 因果関係はたゆたい、「心象」が「人称」のさかいをやぶく。
 主題は砕かれる、あるいは砕かれる主題とやらも最初からどこにもありはしない。
 
 手癖となった文体に席巻される思考――いまやわたしが感じ考えるのではない、この文体が感じ考えるのだ。

 所作でも心理でもなく、小説こそを文体が書く。坂道を転がる石は、石が坂道を観察しているわけでも坂道が石を観察しているわけでもない。石を転した時、一度たりとも同じ転がり方はしないように、その文体はその都度異なる小説を書くだろう。
 夜のうちに降りつもったもののいまだひとつも踏みにじられていないらしいのが白い平均をなしてまぶしい架橋の上に、二輪の軌跡をいのいちばんにのこしてさしかかる冷え冷えとしてあかるい早朝である。親しみをおぼえてひさしい河川敷を見晴らせばいつもとことなってみえる目新しさの、これはどうにも雪化粧のまばゆさのためばかりではない、むしろ住みなれていくにつれて見出しがたくなる古都のおもむきの、地表をおおうアスファルトの硬く無機質な質感がくまなく封殺されてあるいまだからこそはばかりないそのあらわれにこそ由来するものとみえる。積雪のよそおいが都市を飾りつける小手先の衣装をおおい隠し、その身体の線をあらためて浮きぼりにしているのだ。
覆われることによって浮き彫りにされる。対象を観察することによって暴かれる内部など存在しない。
 見ることの罪。なにも見ないことによって誠実ぶるのはどこかで見かけた光景だ。背中を見ようとしたことの罪とは、不可視のものを見ようとしたことの罪ではない。

(続)